懐 想 録

序 

これから我が「思い出」の記を書き起こそうと思う。その動機は、前々からその思いを持っていたことであり、次に次男二郎の強い奨めがあり、そして私の体力、殊に視力が急速に落ちたからである。

私の体力は次第に少しずつ低下していたが、97歳を迎えた今年(2014年)5月13日の誕生日辺りから、急傾斜で低下している。もう猶予は許されない。回想録執筆の計画も、文辞も文字も練り直している暇はない。ただ思い出すことをずらずらと書くだけでよい。

章段らしいものは、一応仮題を付けて区切りは付けておきたいが、それは必ずしも時間の序列とはならない。文章も前後錯雑し、あれこれと中身も混交しているだろう。それでも構わない。ともかく思い出して書いておくことにする。

    故き人の手編み膝掛け出し見れば

旧き模様も夜寒に温し

うす青き小梅二キロを笊に敷き

梅酒醸すと嫁は勇めり

俺だよと常の声音に伝えきぬ

阿鼻の地獄ゆ生還の子は

うながされ妻の葬爐のキーを押す

涼しく燃えよ言いおりしごと

迫り来るものの近きを知りながら

わが回顧録筆の進まず

壱 ハワイの思い出

1生誕の地

 大正6年(1917)5月13日、私は吉田十蔵、母マツの3男として生まれた。戸籍に残されている兄弟姉妹は7人であるが、2男輝明、末妹アヤメは夭折しているので、他の人からは5人兄弟だと思われている。

 生地はアメリカ合衆国ハワイ島である。ハワイ島はハワイ諸島の中の最大の島で、マグナケアの高山やキラウェアの噴火口で有名だ。しかし当時は1900年にアメリカに併合されてから20年にも満たない時期で、ハワイが合衆国50番目の州となるのにまだ少し時間を要する頃であった。従ってハワイ領は、まだ植民地色の濃い、プランテーション的農地経営でサトウキビ(甘蔗)の栽培が盛んに行われている時代であった。

 ハワイ島は他の諸島と同じく火山の噴出物によって覆われた島で、広さは九州の4分の3位だろうか。その首邑が東海岸のやや南に位置するヒロである。島全体が火山堆積物の台地で、ヒロが面する東北の海岸も狭長な海岸線からすぐ台地が切り立っている。その台地上にほぼ等間隔に小邑が並ぶ。ヒロから20Km足らずの所に耕地ハカラウはあった。等間隔に並んだ邑の多くは、サトウキビ耕地の開発とともにできた砂糖生産の拠点であろう。ハカラウにも広い農園が開かれており、そこに働く労働者の小さな集落の一つがカマエであり、我が生地である。戸籍には、「米領布哇嶋ヒロ ハカラウ耕地カマエ舘府ニ於テ出生」とある。カマエのような労働者の家が固まっているところはキャンプと呼ばれたらしい。私はまさしく、そのキャンプで生まれた。

2暮らしの思い出

(1)父母の思い出

 私の記憶は3歳から4歳くらいまでしか溯れない。故郷海東の妹マツエが嫁いだ岩村家に、長男良一、私、マツエの3人が写っている長円形の額に入った写真がある。真ん中の椅子に座った晴着姿のマツエは2歳ぐらいに見える。そうすると良一が8歳、私が4歳ぐらいの写真だと思う。恐らくハカラウの写真館に連れていかれ写されたものだ。そのときの写真室の様子、あれこれと容儀をなおす写真屋のことがぼんやり思い起こされるのだ。しかし、マツエや輝男が生まれたときの記憶は、全くと言っていいほど無い。

 父十蔵は、明治18年3月12日、吉田敬太(安政4年5月10日生まれ)と加賀(安政4年9月19日生まれ)の長男として熊本県下益城郡海東村大字東海東178番地で生まれた。明治40年9月27日から翌1月24日の間に出稼ぎ移民としてハワイ島に渡った。

 母マツは、明治26年8月10日同じ東海東227番地(敬太戸籍では217番地)松岡喜三郎と未来の長女として生まれた。

 明治44年9月25日に十蔵26歳6ヶ月とマツ18歳1ヶ月は婚姻、同日入籍している。

 岩村家に残る写真を撮った当時、父は32歳、母は8歳年下の24歳のはずである。ハワイ時代の父母の写真も撮ったはずだが、手元に無い。私の記憶に残っている父は、強い木綿の生地で作った長袖、長ズボンの両肩から吊るされた労働着を着ている。その姿で早朝サトウキビ畑に出かけ、午後5時過ぎには帰宅していた。和服姿でくつろぐ姿は記憶に無い。

 母の姿で印象深いのは、ミシンを踏む姿だ。後に日本に持ち帰ったシンガーミシンのペダルを踏んで縫い物に打ち込んでいた。時々ミシンを踏みながら労働歌みたいなものを口ずさんでいた。歌詞の内容は思い出せないが、労働歌であったように思う。

 父は、「ヨシテル、ヨシテル」とよく声をかけてくれたし、母も不器用な私に手こずりながらも、よくかまってくれた。父母の愛情に不足はなかったが、私が思い出すのは、近所のだれかれと無く可愛がられたことだ。

(2)わが家について

 私の記憶は3、4歳までしか溯ることしか出来ないので、それから帰国する6歳までの3、4年間の記憶しかない。わが家はカマエの集落の中にあったが、細かな構造については、はっきりとは思い出せず、おぼろである。それでも一戸建ての独立した平屋で、屋根はかなり厚いトタン葺きであったことは覚えている。カマエの家はどれもトタン葺きの一戸建て平屋ばかりである。床はやや高床式になっていて、家に入るには、2、3段の階段を上らなければならなかった。板敷きの床にテーブルが置いてあり、食事はそこで食べていた。

(3)食事について

 食事は米飯の和食が主で、随分箸使いについて教えられたことを思い出す。スプーンでアイスクリームを食べたことはあるが、正式にナイフやフォークを使った記憶は無い。食べ物で思い出すのは果物だ。バナナは始終食べていたし、マンゴーも珍しいものではなかった。中でも一番なじみの深かったのは、パパイアだ。家の近くにパパイアの木があって、それに実がなっている。実は熟れると採ってよいのだが、今でもそれを採ろうとして幹にしがみつく自分をイメージすることがある。実際には幼い私に手の届く高さではないのであろうが、いつも手に取って食べられる身近な果物であったということだろう。近頃マンゴーは九州各県でも栽培されるようになったが、子どもの頃食べたパパイアの、庶民的な懐かしい味には未だ出会っていない。パイナップルもハワイで栽培され、缶詰にされていたが、その果汁はうまいと思った。

 食事については、もうひとつ、おこげの思い出がある。母が作るご飯の釜をハガマと言っていたが、そのハガマの底に薄くおこげができる。それが香ばしくかみ味がいいのだ。マツエたちと喜んでたべている図が90年以上経た今も頭の隅に残っている。釜の形や色合いは、はっきり思い出せるのだが、どんな火で焚かれたものかは、一向に思い出せない。薪であった記憶がないので、ガスだったのだろうか、当時ガスはあったのだろうか、薪以外のあまり印象に残らない物だったのか、当時の資料を探してみたい。

 食膳には米飯、味噌汁、野菜類のほか、時折、牛肉や豚肉、鶏肉がでた。そう言えば、鶏は処理するのが、親の役割だったのを、今思い出した。キャンプでお祝いのある日には、集落の外縁で焼き豚がつくられた。長い串に貫かれた豚をぐるぐる回して焼くのであるが、その臭いを私はあまり好きではなかった。

(4)気候と衣服について

 衣生活については、ハワイの季節柄簡易なものであった。ハワイ島北端から少し南に北緯20度線が通るから熱帯圏に属するが、安定的な東北からの貿易風のため気温は年間を通じ25度前後で、東京の5月、九州の10月のような快適な気候である。

 そこで子供は半袖、半ズボン。昼夜の温度差も小さいので軽いケット(毛布)を掛けて寝た。母の服装も洋式の簡単着で、後に日本でも流行ったアッパッパ様式と呼ばれたものだったと思う。父が着ていたもので特に印象に残っているものは、アメリカ製の強い木綿地の長シャツ、長ズボンで、後に日本の若者着にもなったジーパンを身につけた姿である。これが普段の労働着で、折り目あるときには背広を着た。

 寝るときは、特にベッドの記憶もないので畳敷きの部屋だったと思うが、浴衣のような簡単着を着た。白い大きな蚊帳が吊られ、その蚊帳にはちょっとした裾模様があり、なぜかそれが妙に嬉しく、はしゃぎ回ったことを覚えている。

 ハワイ島には太平洋圏では最高峰の、4000メートルに達するマグナケアをはじめ高い火山がある。そして火山の斜面にはよく雨が降る。しかも、短時間にザーッとくる、スコール性の雨である。雨が多かったせいか、頭巾付きの雨合羽を着用した姿のイメージが残っている。子供たちは通学用の雨合羽を持っていて、大雨に立ち往生した記憶はない。

 要するにわが衣生活は、母の手縫いの普段着か兄のお下がりで事足り、折々の晴着はヒロかハカラウで買っていたものだろう。唯一岩村家に残る写真には、きちんとした半袖シャツ、ズボンに編み上げ靴を履いて、利かぬ気の顔つきで少し得意気だ。

(5)遊びについて

 この頃のカマエは戸数30から40戸の小さな集落だったように思う。ほとんど純粋な日本人の集落で住民には日本語だけが通用する小さな社会だった。

 私は父を「オトウサン」、母を「オカアサン」、兄を「アニサン」又は「アンチャン」、近所の人を「オジサン」、「オバサン」又は「オバチャン」と呼んだ。

自分のことは「オレ」、相手は「アンタ」であり、「ボク」「キミ」は使わなかった。不思議なことに、一緒に遊んだ同年輩の友達の名前は、一人も覚えていない。ただ、「てるてる坊主」というあだ名で呼ばれることが嫌だったことだけは覚えている。「てるてる坊主、てる坊主、あした天気にしておくれ」という童歌と名前のヨシテルを掛けた呼び名で囃されるのは、悪意は無かったのだろうが、いい気持ちはしなかった。幼童時代の遊び仲間の名前が思い出せないが、外に出て遊ぶのは好きだった。

 カマエ集落には小川や公園などの遊び場は無く、せいぜい家の周りで遊んでいるほか無かった。ことに思い出すのは高床式の家の床下での遊びだ。2、3段の階段の高低差はしれたものであるが、何かしら工夫があったのか、幼童にとって床下は十分で、格好の遊び場だった。床下の土は、しっとり湿り気があったが、風通しが良く、思いの外明るかった。兄とは4歳違いで、遊び仲間とは言えなかったが、二つ下のマツエや輝男と遊んでいたように思う。ほかに、道路や床下の地面にジャンケンで勝った者が指の幅で回転させて線を引いていく「国取り遊び」をした記憶がある。

 棒きれを振って物に当て、木の目印を回る遊びもあり、学校ではクリケットと称していた。野球の国アメリカで、どうして英国系のクリケットを真似ていたのか、今も不思議である。

 前にも書いたが、近所のオジサン、オバサンには随分可愛がられた。特にヒガシというオジサンには、眼をかけてもらった。背の高い、まだ30歳前の独身の青年オジサンだった。何かと話しかけてくれ、私がそれに応答すると非常に喜んでくれた。よく家に連れて行かれ一緒にご飯を食べた。ヒガシさんも農園で働いていたと思うが、何か寂しかったのだろう。後年そのことを思い出し、ヒガシさんのその後を知りたいと思ったが、我が懐旧というほかは無い。今も食卓で物を食べながら、勝手な幼児語を発していた自分の姿を思いだす。

(6)ハワイでの教育

①日本語学校 

 私の幼児期に大きな影響を残しているのは、日本語(人)学校である。この学校はハカラウにあったので、ハカラウ川の谷を越えて2kmも通わなければならない。渓谷にはトロッコ列車の鉄橋が掛っていたが、サトウキビ運搬が主な任務だから、どうしても歩かなければならない。通学は、まずカマエの台地から斜めに渓谷への斜面を下ると、真上にトロッコ列車の通る橋が掛っている橋がある。橋を渡り向こう岸の斜面を登るとハカラウの台地になる。ハカラウの町には自動車が走っていたが、この渓谷を通る通学路を定時運行する馬車や自動車はなく徒歩通学となる。今思えば、この上り下りのある2kmの道のりを幼い足でよく通ったものだと思う。

 1921年(大正10年)か1922年の7月に私は日本語学校に入学した。前者だと幼稚園部だったろうし、後者なら小学入学と同時ということになるが、9割方、後者だと思う。

 私のこの頃の記憶は曖昧で、学校名も所在地もはっきりしない。今回収集した記録には、自分の記憶を蘇らせるものがある一方で、それを混乱させるものもある。収集資料の中に、編著者小沢義浄氏の書籍の複写があり、ハワイの日本語教育史について記載のある箇所を以下に引用させていただき、当時のハワイの教育を想起してみたい。

 『ハワイに移住した日本人社会の子弟教育は、母国に居住している心境で我

  が子を育てようとすると、そこに意外なことに突き当たるのである。我が

  子が自分の知らない言葉を口にするのを聞いて驚かされる。

   ハワイは諸種の民族が雑居し、各種族めいめいの国語ではなしあって

  いる。領土はアメリカであるからハワイの国語は英語である。子供には

  国境はなく、ハワイの子供社会には各国語混合で生活語が通じ合ってい

  る。それを聞いた日本人の親は我が子の話に理解できない言葉がでてく

  る。我が子に話す言葉が思うように通じない。親子の意思疎通を欠くこと

  は何物にも代え難い心痛である。日本語教育は、ここに緒を発したので

  ある。

   親は我が子が生まれると、日本の本籍地戸籍吏に出生届を提出し、こ

  こに日本国民として登録される。一方アメリカは、米国領土に生まれた

  子は生まれたときの助産婦又は医師により衛生局に報告されアメリカ市

  民となり、米国民としての権利義務が双肩にかかるのである。かくして

  日本と米国双方に国籍を有する二重国籍者という奇妙な国民が本人の知

  らないうちに出来上がってしまう。この子を収容する日本語学校教育を

  ハワイの為政者が邪推をもって注目し、ついに干渉にまで及んだが、親

  子関係を阻害することは、自由平等をもって立つ米国憲法にもとる行為

  として日本語学校教育を米国最高大審院が判決して、米国家の立場から

  日本語学校存続の価値が認められた。』

 このように、第2次世界大戦の後まで日本語教育が行われたのであるが、

その施設の名称は、 ①ハカラウ日本語学校

  ②ハカラウ日本人学校

  ③ハカラウ日本人小学校

 と、紛らわしいものが3つある。ハカラウのような小邑に同種の学校が3つもあったとは考えられないので、これらは同じ日本人関係学校の名称の歴史的変遷を示すものであろう。同資料の索引の中で、ハカラウ明照学園とハカラウ浄土宗付属小学校とがあるのも同様に考えられる。浄土宗付属小学校は同資料の開設年の表によると1902年の開設であるから、後に明照学園と改称されたと考えられる。

 私が初めて入った学校は、何となく柔らかな宗教的雰囲気があったような記憶がうっすらと残っているので、この学園に入園した可能性が高いと思う。

 何にしても、私は最初の学び舎に行くことを大きな楽しみとした。ことに橋本先生と呼ばれる女先生から非常に可愛がられたことが忘れられない。橋本先生は、小柄な美しい先生だった。私だけでなく他の子どもたちも皆慕っていて、いつも先生の周りに群がっていた。目鼻立ちもちんまりとかわいく、袴姿で忙しく働いておられる姿が今でも私の脳裏に甦る。

 私が可愛がられたのは、ひとつには私がおしゃべりだったからかもしれない。わからないことは、何でも質問し、わかったら大喜びする。そんな毎日が楽しくて仕方がなかった。

 思い出深いのは、学芸会での劇である。劇の内容は、鞍馬山で大天狗と問答して源氏再興に目覚めた牛若丸が、小天狗、木の葉天狗と武術の稽古に励むという「鞍馬天狗」の幼児劇版というようなものであった。その牛若丸に運動神経の鈍い私が抜擢されたのである。大天狗役は橋本先生で、よほど嬉しかったのか、後年になって、一首詠んでいる。

袴着の女先生にすがりたり

牛若丸も木の葉天狗も

 また、この時に、

京の五条の橋の上 大の男の弁慶が 牛若めがけて 斬り掛かる

牛若丸は飛び退いて 来い 来い 来いと 手を叩く

前や後ろや右左 ツバメのような早業に 鬼の弁慶 謝った

 という歌も習った。この歌は帰国してからも習ったので、今もそらんじることが出来る。

 ②小学校

 ハワイがアメリカに併合されて22年、第1次世界大戦に参加して戦局をリードし、イギリスに代わって覇権を得たアメリカが、准州ハワイの公教育にどれだけの熱意と努力があったか、私は審らかにすることが出来ない。元々州の自治権を重んじるアメリカで行われる公教育の体制・方法は多様である。サトウキビやパイナップルのプランテーション的経営が行われていた当時のハワイでは移住して来たアジアや南欧からの住民及び原住民カナカ族への急速な公教育実施は無理で、宣教師などによる私立学校的教育が多かったと思われる。そのように考えるのは、私が受けた公教育のイメージが稀薄だからだ。兄の良一は私より4歳年長なのでアメリカの公教育をかなり受けているが、どのような教育を受けたということや学校での経験を聞いたことがない。

 1922年(大正11年)5月、私は満5歳になった。アメリカ合衆国の小学校入学始期である。

 入学の時期は1922年の9月だと考えられるが、ハカラウにあった公立小学校についての印象は、不鮮明である。1年未満と通った期間が短かったこともあるのだろう。何かの学校行事の時にポールに上がっている星条旗とその星の数13や條の数49の由来の話、ジョージワシントンの桜の木の挿話、ぼんやりとした異人種の男性の顔などが断片的に浮かんでくる。小学校には広い芝生の校庭があるかなりの規模の小学校に午前中登校し、午後は、こじんまりとした日本語学校に通った。

 そんな中でも、強烈な思い出が、ひとつだけある。大きな小学校に入学して間もなくの頃、起きた事件である。

 カマエからハカラウに向かう谷に入った頃、5、6人いた男の子の通学団の年長のひとりが、「今日は学校に行かず、この森の中で遊ぼう」と言い出した。皆もそれに賛同し学業サボタージュ(後に日本でも聞いた「山学校」という集団登校逃避)が成り立ちそうになった。私は「俺は嫌だ。なんとか学校に行きたい」と抗議したが、そんな1年生の声など取り上げてくれない。こんな時こそ兄の良一が「弟がそう言うなら自分も」と言ってもらいたいのだが、いつも消極主義で大勢順応組の兄は何も言わない。何度も主張したのだが、かといって一人ではハカラウまで登校できない。結局皆と別れることが出来ず、道脇の森に入った。森はハカラウ川の河口に近い渓で、熱帯樹で覆われていて、隠れるには都合の良い場所だ。

 どれだけ遊んでいただろうか。

 「あっ、ポリスが来た」という声に、向こうの谷の路上に馬に乗ったポルトガル人のポリスが見えた。ハカラウ農園(耕地)は、個人所有か会社組織になっていたかわからないが、おそらく会社組織だった可能性が高い。農園労働者の監督の職には、ポルトガル人が多かった。そのプランテーション内の警察権のようなものまで持つルナーと一般に呼ばれるポルトガル人の存在は、その後父の口から何度も聞いたものだ。

 おそらく、学校側から監督に「カマエの子どもたちが来ていない」と通報があったのだろう。

 子どもたちは森の奥へ入り込んだが、一人が見つかると後は簡単に監督の前に集められた。中にはべそをかいている者もいた。私もそうだったかもしれないが、それより自分の言ったことが通らなかったことの方が悔しかった。

 子どもたちは、縄にこそかけられなかったが、ハカラウまで連れて行かれ、学校に引き渡された。その後、説諭を受けたはずだが、その記憶は消えている。 

3 サトウキビ農園と移民の村ーハカラウ

 ハワイのサトウキビ生産の歴史は、そう古いことではない。ハワイの歴史そのものが世界史に登場するのもジェームス・クックの世界周航の1778年だから、アメリカ独立戦争と同じ頃だ。ポリネシア系のわずかな人しか住んでいなかったハワイには4つの小王国が形成されたが、1870年にカメハメハ王によって統一される。その王国は女王リリオカラの時代に憲法を改正しようとして住民に反対され崩壊し1900年アメリカ合衆国に併合された。

 ハワイと日本との交渉は意外に早く、開国早々の日本政府とハワイ王国との間に移民を送る条約が成立し、いわゆる官約移民と称される日本人が、1868年(明治元年)に送り出されている。それは、世界におけるサトウキビの栽培と関係がある。サトウキビはイネ科の植物で原産地は、インド説と南太平洋ニューギニア説がある。アレキサンダー王のインド征服時代にヨーロッパにもたらされた説もあるが、もともと熱帯地方の原産であるから17世紀以降の大航海時代に海洋性の熱帯、亜熱帯地方の農産物としてカリブ海、太平洋の諸島嶼、インドネシア、インドなどで栽培されるようになった。ちょうどヨーロッパ列強の大植民地時代と重なっている。島嶼などの痩せ地などでも長大な茎を伸ばし、2年生で収穫、伐採、運搬、切断、圧縮、沈殿、乾燥など農耕労働と工場労働が必要であり、多くの労働力を必要とする。それは広い農園的な経営と運搬、製造の工業的な労務で大量生産の利益をあげる植民的生産に適した産業である。そして、これにはアメリカ合衆国南部で成功したプランテーション的経営が有効な形となる。ハワイ諸島がまだ人口稀薄であったため、ハワイ王国は主として、中国人、日本人の移民を必要とした。しかし、19世紀後半、ハワイ諸島にアメリカ人が進出し、ハワイを捕鯨や海上交通の要とするだけでなく、農地を植民地的に開発してサトウキビ栽培の大規模農業を興しており、南欧やアジア移民が増加し各地にプランテーション集落が出来て行った。ハカラウは、そのひとつであり、そのハカラウから台地を浸食した川が作る谷を隔てた所にカマエのキャンプはあった。

 キャンプという言葉を農地経営の部分的集落にあてることは、ハワイ移民に関し今回調べてみて知ったのだが、なるほどカマエは、ハカラウのブランチ的な小集落であったのだろう。

 カマエは小集落で周りをサトウキビに取り囲まれていたが、電気も水道も来ており、トイレも水洗だったと思う。道路はハワイ特有の火山噴出物をつき固めたようで、アスファルト道路のように歩きやすかった。ハカラウはハワイ島の首邑ヒロに近いこともあり、子供の眼には、結構街らしく感じた。

 カマエの集落は何戸くらいあったのだろうか。1941年(昭和16年)のハワイ島の人名録の中に、カマエ在住の日本人の氏名がある。成人男子のみで52名。親子、兄弟らしい同じ姓もあるから、それを考えると(私たちが居たときよりも減って)20戸くらいではなかったろうか。1941年といえば太平洋戦争勃発の年であり、カマエの日本人キャンプも最盛期を過ぎていると考えられる。この名簿では、出身県が記載されているが、一番多いのは沖縄県の17名で約3割。第2位は熊本県の12名、第3位は広島と山口が同数7名で並ぶ。以下高知5名、宮城3名である。ハワイ島の他のキャンプでも、これと同じ県名が並び、その他では和歌山、福岡以外は散見する程度である。総じて西日本が多く、中でも沖縄をはじめ九州各県、中国地方の山口、広島が多いことがわかる。

 そして、この名簿の中に、父吉田十蔵と弟輝男の氏名が並んである。父の十蔵は、「十造」となっているが、再渡航し翌年1942年に一人で帰国した父十蔵に間違いない。

弐 帰国の途

1 帰国の道程

 1924年(大正13年)吉田十蔵一家は日本に帰国することになった。もともと父は出稼ぎ移民であり、母とは呼び寄せ婚で世帯を持ち、ハワイで四人の子を成していた。ハワイのサトウキビ栽培は、日本人の手によって開発、発展して来たと言ってよい。しかし、日本人の勤勉性と団結心はかえって主権国アメリカの排日感情を呼び起こした。また、当時の不況で、アメリカ国内の失業者が増加し、アメリカ人の雇用を圧迫したことも西部を中心として排日的な機運を高めた。それまでは紳士協定による緩やかな規則があったのだが、呼び寄せ婚などで増加する日本移民を排除する排日移民法が成立したのが、まさにこの年、1924年である。強い政治的な感情を持っていたとは思えない父であったが、故郷の老親への思いもあったろうか、一区切りつけるつもりか、帰国の決意をしたものと思う。

 荷物は、大きな布袋や行李、トランクと呼ばれる櫃状の頑丈な荷物入れにまとめられた。いよいよお別れで、洋服を着た首に、ハワイ独特の花輪レイを掛けられ、いろいろな言葉を周囲から送られた。家の出口で私の小さい編み上げ靴の紐を結んでくれた女の人が、別れの言葉をかけながらポタポタと大きな涙を靴紐の上に落とした。おそらく普段からお世話になっていただろうこの女の人が誰であったのかは思い出せない。しかし、そのポタポタと落ちる涙は鮮明によみがえるし、私が生涯出合った涙の中で最も思い出深い涙のひとつである。

 ヒロからホノルルへ出航する時も見送ってくれる人がいた。美しい色のテープが船と見送りに来た人の手に渡っていて、それが少しずつ切れて波間に落ちていった。

 ホノルルの港には、2〜3泊した。鮮やかに思い出すのは、水族館だ。様々な色彩や縞模様が美しい熱帯性の魚が泳いでいて、その美しさと動きに、初めて水族館を見た私は圧倒された。美しいパラソルの並んだワイキキの海岸や旧王宮へも行った覚えがある。後年、岩村誠君とワイキキの海岸で泳いだ時には、どこか曽遊の地だという感じがした。王宮には自動車で行ったか、馬車でいったか覚えていないが、カメハメハ大王の話はよく聞いていたので、その話とともに、正門と芝生を隔てた旧王宮の姿がおぼろに残っている。船を待つのに6〜7日滞在したような気がする。

 ホノルルで日本に帰る船に乗り換えるのだが、その乗船した船の名前がはっきりしない。当時渡洋した帰国者は、その家に故郷の神社の絵馬に代えて乗船した船の写真を掲げていた。大きな貨客船は雄壮でスマートな姿は、私ばかりでなく、子どもたち皆があこがれた。

 私はこれまで乗船したのは、日本郵船の船とばかり思っていた。ところが、今回調べてみると、当時の日本郵船は南米ブラジル航路やヨーロッパ航路に就航していて、北米航路には就航していない。当時の北米航路を握っていたのは、東洋汽船であった。この東洋汽船のサンフランシスコ〜横浜航路はホノルルに寄港するので、我々一家はそこで途中乗船をしたのである。この航路に就航していた船は3隻、大洋丸、天洋丸、春洋丸で、どれも1万5千〜1万6千トンの大貨客船である。乗船した船は、確信は持てないが、大洋丸の確率が高いと思う。東洋汽船は浅野総一郎などが創立した会社で、当時は北米航路を握り盛業中だったと思うが、後に日本郵船と合併したので、私が思い違いをしたのだ。

 とにかく一家は、ホノルルで3隻の中のひとつに乗船した。船はサンフランシスコ航路の花形として、大きな船体と雄姿は記憶に残っているが、その船室の記憶は不思議と言ってもいいほど無い。それでも、3等客として許されている甲板にあがって太平洋の大海原を見回したことは記憶にあるし、当時ホノルルからサンフランシスコまで5日、横浜まで10日かかったことは、聞き覚えている。

 私たち一家は横浜港山下埠頭に着いた。船からタラップを降りて桟橋に立った時の記憶が残っている。降り立った桟橋が薄黒かった覚えがある。時は1924年(大正13年)春であろう。この前年の9月1日に関東大震災が起きている。

 しかし、桟橋の色が薄黒かったというのは、けげんなことだ。桟橋の木の部分が焼けていたとは考えられないので、下船して泊まった横浜港近くの街の印象と桟橋の印象が入り交じったのかもしれない。(交錯)そう言えば父が「東京に行っても地震で焼けているから見るものもなかろう」と言ったのを覚えている。

 横浜から熊本までの途中の記憶はまるで残っていない。関門海峡は船で渡ったはずだが空白だ。4人の子どもを抱えての長い列車の旅は大変であったろうし、今にして思えば、父には父、母には母としての辛労があったろうと察するばかりである。

 故郷の駅、小川駅に降りると、親戚をはじめ村の人たち大勢が迎えに来てくれた。乗り合い馬車か貸し切った馬車なのかはわからないが、「よう帰って来た」という声と「ハワイに渡って16年ぶりだ」という父の声が耳に残っている。

参 父が移民になった理由

1 移民は国策

 アメリカからみてハワイにおける大規模農業経営のために移民が必要だったことは前にも述べた。同じようにインドシナやカリブ海、アメリカ西海岸、南米においても植民地的経営のための労働者が必要となり、各国から集められたのである。

 一方、日本においては、日露戦争後海外で国力を上げようと、移民に対する関心が高まった。また、第1次世界大戦後の日本の地位の向上も移民政策を推し進める要因となった。ドイツに莫大な賠償金を課したベルサイユ体制が次の大戦の引き金となったことが問題になっているが、戦勝国の中でもアメリカは戦後経済的にも軍事的にも飛躍的に発展した。同様に連合国側だった日本は5大国入りを果たした。このまま大陸進出を続け、外地に活路を見出せば、人口増や農業問題も解決することができる。「移民やるべし」移民政策は国策となった。民間に移民会社をつくらせ、入植者を募り各地に送り込んだのである。

 特に熊本県は移民に積極的で、富合村出身の上塚周平は「ブラジル移民の父」といわれ、成功した移民例のひとつである。

 外務省の明治40年自7月至九月の海外旅券下付表によると、同年9月27日に父は晩成移民合資会社を通じ旅券(旅券番号第105120號)の交付を受けたことが熊本県から外務省に進達されている。ほかに熊本県関係では、明治移民合資会社の名がある。小川町史によると明治41年1月25日にはハワイへの移民が禁止されているので、父十蔵が1回目の渡航したのは、明治40年9月27日から翌41年1月24日までの間だったと考えられる。明治40年9月3日に南海東3025番地から十蔵に嫁した山本太喜三女ヨシ(明治23年6月29日生まれ)は翌年3月9日に協議離婚している。妻ヨシの旅券交付簿はないことから、この入籍は十蔵が出稼ぎ移民となるために便宜的に届けられたものではないだろうか。いずれにせよ十蔵は22歳の時ハワイ島に渡った。

2  父が出稼ぎ移民になった理由

 農家の長男である父がなぜハワイに渡ったのかは、ずっと疑問に思っていた。

 ひとつの理由は、吉田家を興そうと思ったのだと思う。下に3人の弟を抱え、小規模な農家を少しでも大きくしようとして、期間を決めて移民として働き、一旗揚げて帰る。定住するのではなく、故郷に錦を飾り、吉田家を再興するために海を渡ったのだ。一角の農家にすることが父の夢であったろうことは想像に難くない。時代もあったのだろう、海東には同じハワイ島の近くにいて帰ってきた坂上家やブラジルやカリフォルニアから帰ってきた家もあった。

 もうひとつの理由は、子どもたちに教育を受けさせる必要に迫られたからだ。もちろん、1回目の渡航時は独身であったから、そこまで考えていたかどうかは、分からないが、2回目に渡航した時は一番大きな理由であったと思う。

 というのは、父は学問が無ければ人生を切り開いていけないと考えていたし、常々口にしていた。

 父十蔵の子供の頃の海東は大きな海東村ではなく、東西南北の4海東時代だった。明治18年生まれなので明治25年に尋常小学校に入学、当時の義務教育は4年間であった。この尋常小学校は東海東村にあり、寺子屋に毛が生えたようなものであったと聞いた。おそらく就学率は50%以下であったろうし、卒業するのは40%以下だったと思われる。当時この上に下益城郡でも3校だけ義務教育ではない4年制の高等小学校があり、そのうちのひとつに小川町に南部高等小学校があったが、農家の長男である父は進学していない。高等小学校には経済的に恵まれた勉学意欲のある子弟しかいけない大変なキャリアであり、父は、成績は悪くなかったと言っていたが、尋常小学校を出てそのまま働き始めた。

 

        四 弦巻の家

1  旧い家

 帰った弦巻の家は、茅葺きに尾の下家(上が茅葺きで下の庇が瓦葺きの家)の付いた古い家であった。所在は当時の熊本県下益城郡海東村東海東弦巻。弦巻は村の中央に近く、砂川とその支流田中川(私が勝手にそう呼んだ)に沿った、傾斜のある細長い集落である。県道18号が通り役場にも学校にも近く、歴史ある塔福寺がある。塔福寺が立つ丘の東300mばかりの所で丘が少し凹んでいて、その向いの丘の端に、吉田家と湯上家の2軒の家が建っていた。場所は向かえと呼ばれた。

 吉田家には祖父敬太、祖母加賀が父の末弟宗喜とその妻ミユキと一緒に住んでいた。

 家の南には、ハルノヤマ(墾の山か?)の緑が迫り、柚の木、九年母など屋敷林が少しあり、ショウガやミョウガも育つ菜園があり、その上段の物干の庭の東に納屋が建っている。納屋とは鍵型に母屋が建ち、左手の入り口を入ると俵物を置く庫と作業場を兼ねた、かなり広い土間があり稿打石が座っている。土間の奥の方にはカマドが据えられている。土間からカマチを上がるとオモテと呼ばれる8畳、続いてザシキと呼ばれる8畳の客間兼仏間があり、オモテとザシキの間はマイラドという古典的な木製の引き戸で仕切られ、南側には3尺の縁側がついていて、その内側は障子で外側は雨戸になっていた。客間兼仏間の北には部屋と呼ばれる寝室があり、ここには滅多に入らなかった。オモテの北に1部屋あり、食事部屋のイタノマに続き、カマドのある土間に下りられるような構造になっていた。天井には厚い板が張ってあり、麦わらや道具類の物置になっていたらしく、隅に梯子が立っていた。

 カマドの土間から背戸を出て10mくらいの所に屋根を掛けた井戸があり、手押しポンプで水を汲み上げた。風呂も同じ屋根の下にあり、五右衛門風呂と狭い洗い場があった。

 こうして思い出してみると弦巻の家は、田の字型の、当時の典型的な農家の造りであった。しかし、祖父母、宗喜・ミユキ(南海東の外村家健次郎長女から大正9年6月30嫁いだ)叔父夫婦と私たち一家が住むのには、いかにも狭かった。

2  分家と新しい家

 間もなく父は田を2反、さらに後広い桑畑を買い増し、その一部を宅地として大きな家を建てた。多分弦巻で一番大きな家だったと思う。場所は「エンギャ」と呼ばれた。

(新しい家の話)

 農家にとって遺産相続は、重要な問題だし、難しい問題だ。一般に次男以下は、何かしら技術を身につけて家を出て働くか、養子になるしかない。祖父吉田敬太の次男嘉蔵は、北海東の松崎家豊太郎・惠茂夫婦の養子になり、3男又喜も北海東の岩村家常次・武喜夫婦の養子となっている。後に妹マツエは岩村家の長男豊といとこ同士で結婚した。

 しかし、4男宗喜は石工として働いていたが、祖父が病気がちであったのと父がハワイに渡ったため、祖父の農業を手伝っていた。そこで、父は末弟宗喜に古い向かえの家と田畑の一部を分け昭和2年1月25日分家させた。

3 祖父母のこと

 祖父敬太は性格が強かった。若い頃から農業の傍ら馬を飼い「駄賃取り」をやっていた。駄賃取りとは、小川町の商人に頼まれて主に海産物を馬に積み、五木や五家荘まで運び、帰りには、そこで産した山の物を街まで運ぶという、いわば運送業である。峠をいくつも越え、幾日も掛る、かなり大変な道程であったと聞いた。その時の山中で昆虫を媒介とするマラリヤのような病気、地元で「クサフルイ」と呼ばれる病気に掛っており、足が紫色に腫れ上がり、痙攣や頭痛などで1週間以上寝込むことが、年に3〜4回あった。

 祖母加賀は非常に優しい人で、孫をむぞがり(可愛がり)にむぞがった。しかし、私たちが帰国した翌年、日奈久温泉に炊事道具持参の湯治に行き、帰って来て宴会をしていた途中、縁側で休んでいた時に脳卒中で倒れ、そのままあっけなく亡くなった。

五 海東尋常高等小学校時代

1 小学校入学

 私の小学校時代というのは、義務教育が6年に延長されており、後の2年は義務教育ではない高等科となった。尋常科終了時に卒業式が行われ約3割は高等科に行かなかった。

 私は帰国し、学齢どおり海東村立海東尋常高等小学校の尋常科1年生に入学した。担任は上田先生だった。ところが同時に帰国した兄は、年齢では5年生で編入するところ、2学年下げられ、3年生に編入した。当時帰国した生徒は、学年を下げられるということは、ままあった。しかし、下げられても1年くらいであった。私と同級生になった1年年長の高村秀雄君は、非常に優秀で何でもでき、ずっと級長を務めた。このことが兄にコンプレックスを植え付け元々消極的な性格をさらに消極的にした。この措置は今でも間違いだったと思っているし、以降私の人生にも影響して行く。

 翌大正14年尋常科2年では、学校にも慣れ、同級生として弦巻に岩村豊、堀本君がいた。他に村長の息子木村  君、助役の子土村忠豊君、 その親類土村 

畑中組 冨田 福田ツギノ 福田四君 ○○秋義 同重人 〇〇〇〇○   〇〇〇〇○   井上〇〇 四瀧ススム 松本 緒方ー〇の〇 吉川武義 がいた。

 

2 父と輝男の2度目の渡航

(1)養蚕と製糸業

 祖父から引き継いだ農地と買い足した田畑で帰国してから生まれた末弟五男を含め5人の子どもたちを食べさせることは十分で、子どもたちの教育費は桑畑で蚕を飼い現金を稼ぐことによって、十分一家が暮らしていけるというのが父の目算だった。養蚕は製綿業や製鉄業などとともに当時の国の基幹産業であり、絹からストッキングが作られ、農家に現金収入をもたらし、国の収支を黒字にしていた。熊本でも実学党の子女が関東の工場に行き製糸を学び、そのノウハウを持ち帰った。製糸業を全国展開したのは長野製糸?の渋沢栄一であり、小川にも甲州製糸?系統の若林工場ができた。

(2)世界恐慌

 ところが、第1次大戦後の好況は、徐々に逼迫していく。そして1926年(昭和元年)ウォール街の株価大暴落を契機に世界不況が始まる。絹織物が売れなくなり値段が見る見るうちに下がった。米の値段も連れて下がり、農家の経済を直撃した。特に東北地方では娘を売るなど、その深刻さは、かって経験したことのないものであった。

(3)再渡航

 昭和4年遂に父はハワイ島への再渡航を決意し、弟輝男を連れて海を渡った。当時兄良一は高等科2年、私は尋常科6年、弟輝男は尋常科2年の時である。

 輝男は、小さい頃中耳炎になり、難聴であった。父が帰国する時もそのままカマエに残った。

 海東でも坂上家は一家で再渡航したが、母は残り、実家の松岡家のナツエさん、ハルエさんに、特にハルエさんに手伝ってもらい、他の子どもたちを育てた。

3 小学校卒業と師範学校入学

 兄良一は昭和5年3月に高等科を卒業し、3年制の県立熊本工業学校機械科に進学した。熊本市にあった学校には通うことができなかったので、寄宿舎に入っていたが、授業料と寄宿舎の費用を併せると月20円くらい掛ったのではないだろうか。

財産持ちの家でも、なかなか進学させなかったし、兄と同級生で進学したのは広田マストが宇土かどこかの中学校に行っただけで、他の人が進学したのを私は知らない。兄の進学を支えたのが、父のハワイからの送金であった。

 昭和7年3月私は、高等科3年を卒業した。この時兄は尋常科の編入を2年下げられていたため工業学校を後1年残していた。仕送りがあったとはいえ、さすがに同時に2人を進学させる程の余裕は無い。父母が手紙で相談をし「良輝は1年足踏みをせよ」と母から言い渡された。それから1年農業の手伝いをした。この1年でおよそ農業はどういうことをやるのかはわかったつもりだが、同級生が進学する中で、ひとり足踏みするのは、結構辛かった。

 同級生では、庄屋の家柄の土村君が熊本師範学校に行ったし、元村長の息子木村君、元助役の息子のこれも土村君、現村長の息子池田君の3人が農学校に入った。進学するのが稀な時代に例外的に優秀な学年だったと言っていい。

 1級下の学年の担任は、友枝先生といい、小川町から来ていた。この学年には5人の進学希望者がいて、友枝先生は午後にその生徒たちを残し、特訓をしていた。

これを何処からか聞きつけた母が、「お前もかてて(加えて)もらえ」と正月明けに言われ、午前中は農業、午後は小学校に行き、1月2月の2ヶ月間、友枝先生の指導を受けた。

 先生は師範学校の受験の日にも4人の希望者を引率してくれた。本科第1部募集60名、受験者300名競争率5倍のところ、海東から合格したのは、私ひとりだった。

落ちた者は、農学校も受けていたらしく、そちらに進学した。

4 熊本県師範学校

 昭和8年4月私は熊本県師範学校本科第1部に、1年足踏み後入学した。当時の師範には高等小学校を卒業した者が5年学ぶ1部と、中学校を卒業した者が2年学ぶ2部の2つのコースがあった。

 師範3年の1学期後半に乾性肋膜炎を発症し、2学期以降海東での自宅療養を余儀なくされた。5年の時復帰したものの、別室に病気経験者だけ6人が集められて、そこで室長をやっていた。そんな状態だったので、とても兵隊検査には受かるまいと思っていたが、なんと第2乙の判定でギリギリの合格となり、昭和13年3月師範学校を卒業した。当時は国民皆兵の時代で、一般人は現役兵2年、予備役10年〜12年を務め後備役となるのだが、師範学校卒業生は、国民兵役の幹部として扱われ、短期現役兵を5ヶ月務め、その後赴任する学校に行くことになる。4〜5月2等兵、6〜7月1等兵、8月上等兵と務め、8月31日に伍長になって、昭和13年9月1日には三角港から牛深まで船に乗り、最初の赴任校である深海小学校に着任した。

 昭和17年4月には、定員30名の師範学校の専攻科に入り、翌年3月に卒業、4月には大矢野島の登立小学校に赴任した。専攻科を希望したのは、海東の母が病気になり、父はハワイ島、兄は海軍工廠に入り満州に居たため、休みの日には汽車と自転車を乗り継いで海東に帰るためであった。もうひとつの理由は、専攻科を終えれば、出身の下益城郡の学校に帰れるかもしれないと期待したのだ。天草出身の先生が少なかったためか、その期待は叶わなかった。

5 結婚と養子縁組

 昭和18年4月登立小学校に赴任して間もなく、永田先生という女の先生に昭和14年に熊本県女子師範を卒業し3月まで登立小学校に勤務していた河上光子を紹介された。その年の10月か11月には登立の河上家の2階と海東の父の建てた家の両方で結婚式を挙げた。仲人は前登立小学校校長と塔福寺住職竹崎氏が務めてくれた。結婚と同時に、私は登立の家に入り、翌年12月には長男楯夫が生まれた。河上丈吉、キツ夫婦には養子に入って欲しいと言われたが、私には、いずれは海東に帰ろうと考えていたので、養子縁組をするつもりはなかった。しかし、長男誕生の1ヶ月後に昭和20年1月19日に大矢野町役場に養子縁組を届け出た。

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 以上が、父良輝が書き残したものをベースに、私の帰熊の折に聴き書いた内容である。できるだけ忠実に再現したつもりであるが、序にあるとおり錯雑し、年代も確実でないものがあるかもしれない。私が原稿として起こし、父に推敲をしてもらうつもりであったが、白内障の手術の機会を逃した父の視力は、それを許さなかった。好きな読書もできず、一番悔しい思いをしたのは父だったと思う。

 私は、熊本市、宇城市、上天草市に残っている戸籍謄本を手に入れ、六本木の外交資料館や横浜市の移住資料館に出かけ吉田十蔵一家の動きを追った。ハワイ移民の歴史や生活の資料を複写したものを熊本に持ち帰った時に父は「そうか調べてくれたか」と喜んだが、ほとんど読めていないと思う。

 父は、自身の人生を振り返り、大恐慌などの世界の大きな動きに翻弄される吉田十蔵一家を、荒れ狂う大海を漂う小さな家族の姿を描きたがった。私は、「そんなことは学者に任せておけば良い。自分にしか話せない思い出を話してくれ。」と言った。父は悲しそうな顔をして、黙ってしまった。本当に酷いことを言ったと思う。父が描きたかったものとは程遠いだろうが、もう一度勉強をし直して、この『懐想録』に書き足していき、帰熊の折々には父に赦しを乞いたいと思う。

 平成27年(2015)  4月1日 河上 光子永眠 

        春死なむ西行がごと母がごと

 平成27年(2015)12月1日 河上 良輝永眠

空見あぐ雪の重さを量りけり

  • 戦争中
  • 各校における思い出(履歴)
  • 校歌の作詞
  • 道徳の副読本「熊本の心」作成 熊本市教育史編纂(昭和60〜65)
  • 家族のこと
  • 後世に残したいもの

 等聞きたいことは沢山あったが、今はもう叶わない。

 

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